診察室の中の笑い

矢吹清人

外科の診察室は笑いに溢れている。
そのいちばんの原動力になっているのは、まことに元気な年上の女性たちである。腰や膝の軟骨は老化ですり減っていても、口の方は、驚くほど達者でなめらかで、待合室での患者仲間とのおしゃべり、ナースやマッサージ師との世間話などなど院内に笑いを振りまいてくれる。
こちらも客商売であるから、お盆の4日間9キロの孫さんを抱っこしてまた痛み出したAさんの膝の後始末をしながら「ほら、膝にこんなに水がたまってます。孫さんには愛情のホルモンで力が出るんですね。これが9キロの石だったら頼まれても持てっこありません」と言ってみたり、また踊りの名手Bさんに「あの漢方薬が効いたようですね。ここだけの話ですが、あれは色白の美人にしか効かない薬です。いえ、ホントです」などとジョークを発すると、ノリのいいお姉さまたちであるからまた一段と盛り上がってにぎやかになる。
失敗もまた笑いの種となる。82歳のCおじいちゃんは、「こんな暑い日に外で仕事をしちゃダメよ」と言われていたのに、庭の草取りをしていてアシナガ蜂に腕を刺され、お嫁さんの車で駆けつけてきた。刺されたところの腫れと痛みだけで全身状態は大丈夫。腕の手当てと注射を受けて、頭をかきながら「頼まれもしないのに、余計なことをしちまって」と、嫁さんが言いたいことを先に言い、ペロッと舌を出して笑う。こういう「不良じいさん」はボケずに長生きできそうである。 「ギックリ腰」は、朝起きて、腰を屈めて物を取ろうとしたり、中腰でズボンや靴下を履こうとしたときに起こる急性の腰痛である。ドイツ語でヘクセン・シュウス(魔女の一撃)と呼ばれるほどの猛烈な痛みで、ほとんどが腰椎の継ぎ目の関節の急性関節炎もしくは捻挫が原因と言われている。
患者さんは、その瞬間から腰を曲げることも伸ばすこともできなくなり、家族の肩を借りてやっとの思いで、病院の待合室にたどりつく。ナースに名前を呼ばれると、ふつう患者さんは、待ってましたとばかり、すぐ診察室に入って来るが、ギックリ腰の人は、「ハイ」という声は聞こえても、なかなか姿を見せない。医者を長くやっていると、腰痛に限らず、その人が呼ばれてから診察室に入って来るまでの時間の長短で、どの程度具合が悪いか見当がつくようになる。
さて、家族とナースに支えられて腰を「くの字」に曲げながらやっと現れた35歳の建築業の男性Dさんは、「急に腰をやっちゃって」と笑う。ついきのうまで体には自信があった自分のみじめな姿を大いにテレている苦笑いである。腰の関節にブロック注射をして簡易ベルトをつけると、腰がすっと伸びて、帰りは一人で歩けるようになる。

ここでクイズを出します。病名を告げると、ほとんどの患者さんが笑い出す病気があります。何でしょうか?
降参ですか。
答えは「五十肩」です。
1月前から右腕が痛くて上げられず、後ろ手でエプロンの紐を結べなくなった48歳のEお母さん。夜中も寝返りが打てずにつらいとのこと。レントゲン写真で異常はないが、肩関節の動きがかなり制限されており、おもむろに 「これは五十肩です」
と病名を言うと
「エッ! やっぱり」と言って笑い出す。彼女の心理を分析すると、もしやと思ってクリニックに来たが、医者からその通りの宣告を受けて、もうそんな年になったのかという「ショック」と、それに「安心」とがまじった複雑な笑いである。この「安心」は、昔から語りつがれている「五十肩になると半年か1年はかかるが、放っておいてもそのうち治る」という常識が世間にあり、Cさんもそれを知っているからである。
でもいつかは治るといっても、その間のつらさと不便さとは体験者でないとわからない。今どきの常識では、早めに肩峰下滑液包内へのヒアルロン酸注射と運動療法の併用など適切な治療をすれば五十肩もすぐに良くなる時代になった。Eさんにもこの注射をやり、さらに肩関節の大名人の三笠元彦先生から教わった手の合谷のツボへの鍼治療を併用すると、たちまち腕がすっと上がり、肩をぐるぐる回せるようになり本人がいちばんびっくり。本当の笑いが戻る。

外科では、このように注射をするケースが多い。注射が好きな人もいるが、中には大嫌いな人もいる。
大学教授のFさんが、2週間前から、朝方右手の親指が曲がったままで伸びなくなり、ひどく痛むと来院した。手のひらの側の親指の付け根が硬く腫れていて押すと痛がる。指を曲げる腱が通っているトンネル(腱鞘)が炎症を起こして腱がスムーズに滑らなくなって引っかかる「バネ指」である。バンテリンを塗ったが良くならないというので
「では、そこに注射をしましょう」
と言うと、先生はピクッと緊張して、おそるおそる
「あのー、注射は痛いでしょうね」
と、ぼくの顔色を伺う。トマトは赤く注射は痛いにきまっている。真理を追究している学者殿の言葉とも思えない。
「はい、先生、注射は痛いことになっています」
と、笑いをこらえて、毅然と答えると
「それはそうですよね」
と、先生も笑いながらやっとあきらめる。

痛くても患者さんが笑うことができるのは、腰や肩の痛みにはまだそれだけ気持ちにゆとりがあるからである。生命の危険に直接曝される急性くも膜下出血や心筋梗塞の患者さんはそれどころではなく、診療する医師もまた笑ってはいられない。
ぼくはもともと気が小さい性格なので、決して無理をせず、少しでも心配な症状の見られる患者さんは、すぐに大きな病院の専門医にお願いすることにしている。 ぼくら町の医者が絶対にミスを起こさない「安全運転」の極意は、どうやら、いつも自分が患者さんを相手に笑顔でいられる余裕の中で診療をすることにありそうである。
(本作品は2007年版文藝春秋ベスト・エッセイ集『ネクタイと江戸前』に収録されました)

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